NPOトリトン・アーツ・ネットワークの活動レポートです。詳細はhttp://www.triton-arts.net
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2006年10月26日(木):ザ・ジェンツ公演LUX-AETERNA~永遠の光~

1F2-28 佐々木久枝(中央区勤務)

久しぶりに声楽の演奏会を聴きましたが、広報さんから今回は「イケメン合唱団」で注目の団体だとの話を聞いて朝から楽しみにしていました。会場にはいつになく女性のお客様が多く、合唱をなさっているとおぼしきグループもあちらこちらで見かけました。

今回はグレゴリオ聖歌から黒人霊歌までの宗教面に重点置いたプログラミングでしたが、堅苦しいという従来のイメージを払拭する意欲的な演奏でした。
アヴェマリアではアーメンの幅広さやテノールの伸びやかさ、重くなくかといって軽くもないバリトンの存在感が印象的でした。また続けて歌われた曲でも変ホ音の内声部分、特にアルト部分の美しさに惹かれました。ゴンベールでは指揮がやや大ぶりになり、休止を極力控えて流れを意識した曲を自分達の中に取り入れて歌い込んでいました。絶え間なく子音のざわめきが聞こえ、キリエでの喉奥まで上がった発声で歌い出される神秘的な世界。クリステエレイソンのリレー唱部分も滑らかで、何も考えずに聴いていると中声部が実はしっかり土台を据えてアンサンブルを作っているのがよく伝わってきました。半音の刻みも心地良く、細かい音符の揺れにも彼らは声のスパイスを織り交ぜながら歌い進めていました。

続いてフランス語の主の祈りをテクストとしたデュフュフレがオルガニストとしての腕前を発揮した「われらの父よ」は彼にとっての白鳥の歌とも捉え得ますが、オルガン演奏を聴いているような心地良い不協和音のぶつかり合いが声で展開され、楽園の音楽を思わせるような不思議な安堵感を聴かせていました。プーランクは以前合唱で少し歌った事がありますが、フランス語発音で苦戦したのを思い出しました。ジェンツのメンバーはスムーズな言葉運びやフレージングで上質のアンサンブルを聴かせてくれました・・・・さすがです。一度信仰から離れたプーランクを再びカトリック信仰に引き戻したきっかけは諸々あるようですが、ルネサンスやバロックの音楽を通じての心の巡礼が大きな影響を与えているようです。
第2曲「全能なるかたよ」ではグリークラブのような幅広さで歌い出され、強音即弱音のメリハリ、タンタンターンタタターンと独特のリズムに透き通るような声音が不思議な響きを聴かせてくれました。続く「主よ、お願いです」では中声3人の切々とした歌が印象的。第4曲「わが最愛の兄弟よ」は最もグレゴリア聖歌らしい雰囲気が表されている印象でした。今回追加となった詩篇では低音の唸りと高音の細やかな節回しに聴き入りました。低音部の不思議な唸りはまるでオルガン演奏を聴いているかのようでした。聖アントニオの賛歌では強音→弱音→再び強音のメリハリ、裏拍シンコペーションの曲調も堪能しました。2曲目「イスパニアの末裔よ」のラストは現代曲のフィナーレのようで、第3曲「王に賛美が」ではトップの高音に対し他声部が中盤のバリトン・バスの強音の提起が見事で、更にコード進行がジャズ風に聴こえました。ラスト「あなたが奇蹟を求めるのなら」ではメロディが下降音形と休符の裏拍と相まって神秘さを引き起こし、弱音で収まる部分は密やかで不思議な和音の魅力に聴き入りました。

黒人霊歌はそれまで使っていた譜面台を外してメンバーが並び、よりリラックスした雰囲気で歌い進められていきました。「よい知らせじゃないか」ではアップテンポのセッションが爽やか、「イエスのもとに逃れよう」ではしんみりとしてホール内が揺れるような空気を感じ、「揺れろよ、すてきなチャリオット」ではテノール(後でアルトに)3人のメロディと他声部の装飾との掛け合い、「私は心構えしたい」ではソロが乗りに乗ってシャウトも披露、「聖霊が心に入ってくるまで歌います」では指揮者自らのソロによる”歌い振り”を披露。ギター持たせたらそのまま弾き語りライブになりそうな雰囲気でした(笑)。締めくくり「Plenty good room」でも全体的に乗りに乗ったアンサンブルを展開しており、各曲毎の拍手にも増して歓声があがりました。

アンコールはまずあの「舟歌」。哀愁帯びた前奏に続いて波の効果音等もさり気なく歌っていて、歌本編に入ると澄み切った歌声が聴き慣れた楽曲とはまた違う新鮮な響きを聴かせてくれました。伴奏部分も実に忠実に再現しており、聴衆からは笑いと感嘆の声があちらこちらから聞こえていました。続いてのビリージョエル「ララバイ」は当夜初めて聴きましたが、一節一節に心がこもっていて思わずぐっときました。

終演後のCD売り場にはたちまち人だかりが出来、更にそのそばにはついさっきまでステージにいたメンバーも現れて即席サイン会に。興奮さめやらぬ様子で帰路につくお客様を見かけ、かく申す私もサポーター仲間に「さっきから随分とテンションが高いね」と冷やかされましたが、そのぐらいこの日の演奏は印象深かったのでしょう。

オランダからやってきたイケメンはその響きにおいてもイカシた面々なのでした!!日本での開幕公演に立ち会えた私は本当に果報者です。終演後彼らに「素敵な演奏でしたよ!!」と声をかけたところ、ありがとう!!と爽やかな笑顔で返してくれました。合唱愛好の方には素晴らしいプレゼントになり、各地でのツアーでも爽やかなハーモニーで聴き手を魅せてくれるでしょう。
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by tritonmonitor | 2006-10-30 00:27 | TAN's Amici コンサート

2006年9月27日(水):モルゴーア・クァルテット    ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会・5

【報告:須藤久貴/大学院生/(全5回通しで)2階C1列1番】 

 ツィクルスの醍醐味は、同じ作曲家の違った側面を見られることにあると思う。たとえば作曲技法の面でも15曲も書けば、書くたびに音楽は変化していくものだ。あるいは時代の背景が異なれば音楽も異なるだろうし、情況によっても違ってくるだろう。けれども作曲家個人としての「私」という存在は、時代が変わっても情況が変わっても、依然として「私」のままでもあり続けるだろう。

 ショスタコーヴィチの15曲に連なる大長編の「物語」を、5回の演奏会にわたって聴いてきたが、たどり着いた着地点は意想外に静かなものであった。第1番のみずみずしさ、第2番の溢れる力強さといった、初期の明るさは時代を下るごとに失われていくようだ。第9番や第12番には、ふさぎ込む表情に交互して感情の激しい発散があった。しかし第13番から第15番までが取り上げられた最後の演奏会では、ただひたすらに眼鏡の奥を曇らせて沈み込むショスタコーヴィチの横顔が見えるだけである。彼はため息をつくことすらも抑制して、じっと静かに何かをこらえているかのようだ。

 先に「同じ作曲家の違った側面」と書いたが、第5回の演奏会で感じたのは、もはやショスタコが「叫ばない」ということだった。第13番変ロ短調(作品138)では、大仰に構えて声高に主張するということがない。ジャズを模した軽快なリズムで少しだけハッスルしてみるものの、根は暗い。暗さは曲の終わりまで連なっているが、最後にヴィオラのソロが出てくる。時折、第2ヴァイオリンがコル・レーニョ奏法で小さく「コツン」と叩く音がする以外は、長い間ヴィオラの小野氏の音しか響かない。いつのまにかヴィオラは高みを目指して進んでいる。指板の押さえられるポジションがもはやない、というほどの高音を小野氏の左指は押している。音程がやや不安定にすらなる。真ん中の「ド」から約3オクターブ近く離れた高い「シ♭」を、小野氏は一生懸命に弾いているのだ。息も絶えだえに、必死で弾いている。あまりに高い音だったから、後から同じ音の列に加わったヴァイオリンとの音程のほんの少し差が、逆に音楽の切実さを刻んでいるように思えて、ただただ切なくなった。

 続いて演奏された第14番嬰ヘ長調(作品142)には、明るさがあり叙情的な響きも持ち合わせている。第1楽章も第3楽章も、四人がいっせいに弾くことがあまりないのが特徴的だ。第2楽章で中声部二人のピチカートに合わせて弾くチェロと第1ヴァイオリンの二重奏がひときわ美しい。甘美でハワイアンな感じがする。いかにもな歌謡曲風「愛の二重唱」の雰囲気である。ピチカートもウクレレのような俗っぽい響きすらあるのだけれども、親しみやすいメロディーをいったん聴いてしまうと、「のどの渇き」を意識させられる。渋い顔をしてショスタコを食べるのもいいが、やっぱり甘い飲み物も欲しくなるのだ。

 最後の第15番変ホ短調(作品144)は、ひたすら静かな音楽だ。第1楽章冒頭の第2ヴァイオリンの旋律は、日本の古い民謡のような哀しい響きがする。印象的なのは第2楽章の不気味さだ。第3番終楽章にも気味の悪さがあったが、輪をかけてもののけじみている。人魂がゆらりゆらりと漂っているようだ。単音ばかりで四人の音はあまり重ならず、常に静かな響きがしている。四人の対話というより、異なるモノローグを聴いているかのようだった。重苦しい孤独さを感じてしまう。

 何だか月の裏側まで歩いてきてしまったような気分だ。第1番のような清冽な印象を期待して聴き続けるうちに、いつのまにか深く深く心を閉ざして考え込んでいくショスタコーヴィチの思索に引き込まれていってしまったかのような錯覚に陥る。彼の音楽を端的に「歪んでいる」と言ってしまうのはたやすいが、そんな簡単にも片付けられない。現代にあって、そもそも歪んでいない人というのもいないだろう。多かれ少なかれ、みな歪んでいる。プログラムのエッセイに第1ヴァイオリン荒井氏が書いているように、「彼が自身に忠実であろうとするほどに音楽はいびつになってい」くのだと思う。と同時に、その「いびつさ」は表現の可能性を広げることにも役立った。「歪んでいる」と考えることはできるが、「形式や構成の自由さ」、と積極的に捉えたいと思う。

 アンコールでは、まずチェロソナタ(作品40)の第1楽章から第2テーマをアレンジしたものが演奏された。そして、第3回演奏会でも弾かれた未完の弦楽四重奏曲「幻の9番」が再演された。ショスタコーヴィチの自筆譜は第1楽章の225小節までしか残っていないのだが、225小節目以降を別人が補筆して完成された稿も、最近出版されている。モルゴーア・クァルテットは律儀に225小節目までを演奏した。展開部らしき部分が盛り上がりを見せ始めたあたりで、唐突に曲は終わる。書かれなかったけれども、本当はその先に音楽の続きはあるのだ。

 未完の弦楽四重奏曲を以って、モルゴーアがこの長大なツィクルスを締めくくったのは象徴的だ。ショスタコーヴィチの音楽は閉じられないまま残される。はるか彼方まで軌跡を描いていくのを私たち聴衆は見送りながら、これから幾度となく、彼を想って空を見上げることになるだろう。モルゴーアは、エスペラント語で「明日」という意味である。
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by tritonmonitor | 2006-10-08 22:26 | SQWシリーズ

ショスタコーヴィチ 反響

 9月23日、24日、27日は凄い演奏会でした。何よりも5公演通しで聴いていただいた須藤さん。また齋藤さん、初登場の尾花さん、そして常連の佐々木久枝さん、皆様に感謝を申し上げます。

 2006年はモーツァルトイヤーで沸いていましたが、ここにきてショスタコーヴィチの演奏会がオーケストラや室内楽でも行われています。このモルゴーアの演奏会には、音楽評論も3本入り、かなり注目された演奏会だったと実感します。

 10月3日(火曜)読売新聞夕刊には、ハーゲンQとモルゴーアQ(評論は沼野雄司氏)が相次いで掲載となっています。今後も第一生命ホールのSQWシリーズに注目していただけると嬉しいです。
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by tritonmonitor | 2006-10-07 20:25 | チャットルーム

2006年9月27日(水)モルゴーア・クァルテット ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ

弦楽四重奏第13番変ロ短調、同第14番嬰へ長調、同15番変ホ短調

【報告/尾花 勉/1階10列6番】

 今回、トリトン・アーツ・ネットワークとの御縁を得,初めてモ ニターとして参加させて頂くことになった私は大学時代に学生オーケストラでヴァイオリンと指揮を、現在に至っては芸で糊口を凌ぐ身である。このような出自を持つ者として演奏会は常に真剣勝負の場である。プロやアマを問わないことは、私の経験上言うまでもない。

 依ってこの2時間は、やるか、やられるか、後顧の憂いなく正々堂々音楽と渡合う積りで会場まで足を運ぶ。だからこそ敢えて云うが、私は室内楽という世界を避けて通ってきた、否、恥ずかしながら理解出来なかったと正直に言おう。では何故そんな相手に勝負を挑んだのか、と訝られるかも知れないが、私にとっては他流試合、道場破りの気概で第一生命ホール門を叩いたのだった。

 さて、相手を見ればショスタコーヴィチのカルテットという異国から来た様な剣士が、まるで及びも付かない得物を構えている。どう打ち込んでよいやら・・・先ずは相手の出方を伺うことにした。丁丁発止と試合が進み、とうとう「最後のカルテット」が始まる。

 『ショスタコーヴィチの音楽は歪です』と演奏者の荒井氏がプログラムの巻頭に書いて居られるが、それは私なりとも第五シンフォニー以降の、特に第8、第9を介して理解できたし、その「歪さ」が作曲者の「不安」と直結していることもムラビンスキが指揮したそれらの演奏から体験している積りだった。だが、今宵のモルゴ―ア・クァルテットがこの曲で現出させたのはその比ではない。四声部という必要最小限の骨格(私がカルテットに抱いていた苦手意識の核心でもあったのだが)故になのであろうショスタコーヴィチが自己の死を眼前にした、何処へも持って行き様のない、発狂しそうなまでの「不安という歪み」を作曲者の「生活反応」として再現するでけでなく、私の身体へ彼がその時体験した鼓動や脈拍、呼吸をも伝えて来る、などという生易しいものではない。迫って来るのだ。

 人は皆死ぬ。蓋し我々凡夫はその避けようも無い事実に対し一種「開き直り」る事で日々の生を謳歌出来る。なれど「不安という歪み」を内包し続けてきた天才にはそれが出来なかったとしか思えない。ショスタコーヴィチは死を我々以上に恐れ、慄き、その苦しみからのた打ち回る。でも死にたくない。でも死は確実に忍び寄っている。でも、でも、でも・・・。結局、人として死という運命を逃れざるものとして、異才はあろうことか自らの彼岸を表現してしまう。彼は死をも音楽にしなければ「不安」だったのだろう。それは彼の偉材と気質が故にそうせざるを得なかったのだ、ということを気付くに充分すぎる程、四人の奏者は終結音後の長い祈りのような沈黙の中で
さえも私に迫り続けた(15番カルテットが終わると時間感覚が失われる程の沈黙が続いた)。

負けた。完敗である。

ショスタコーヴィチの彼岸、モルゴ―ア・クァルテット、なかんずくカルテットという世界・・・忘れ様にも忘れられない。
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by tritonmonitor | 2006-10-07 20:18 | SQWシリーズ

2006年9月27日(水)モルゴーア・クァルテット ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会

【報告:齋藤健治/月島在住・編集者・TANサポーター/1階10列9番より報告】


「20世紀を許してもいいのではないか,と思った3日間でした」
――計5ステージに及んだ「ショスタコーヴィッチ弦楽四重奏曲全曲演奏会」。すべての舞台がはね,アーティスト・聴衆・スタッフを交えてのレセプションをしめくくるSQWディレクターの謝辞の中での言葉である。
前段は次のとおり。
「前世紀は2つの大きな戦争がありました。ひどい時代でした。お集まりの皆さんのほとんどが,この世紀にお生まれのことと思います。しかし,モルゴーア・クァルテットの演奏を聴いている中で,“20世紀を許してもいいのではないか”と思えました」

たった一晩聴いただけに過ぎないが,この言葉には至極共感を覚えた。
なぜなら,4本の弦の調べからは,20世紀に起こったある一定の制約,そのもとで最大限に己のもつ才能を極限まで伝えようとする意思――一人の人間としての生き方と言ってもいいかもしれない――が感じられたからである。

楽譜には,こんな指定があるのだろうか。
たとえば,「思想的抑圧下における人間の喜びを表現せよ」,または,「『森の歌』の評価による,あなたの思いをピチカートで」。……そんなものが仮にあったとしても,作品発表時に書くことはありえなかっただろう,記譜上には。

大事なことは,20世紀という難しい時代に,この一人の「才能」を勝ち得たことだ。それを,モルゴーアQの,ある時は感情のたけり,あるいは諦念,そして微かな希望への期待,等々の感情の襞を自在に表現する巧みな演奏によって感じる。

SQWディレクターはこう続ける。
「“ベートーヴェンを持っている”,“モーツァルトを持っている”等々の語り口があります。しかし,いま,わたくしたちは,モルゴーアQを通じて,“ショスタコーヴィッチ”を,確かに,持っている,のです」

この最終日は,400人を超える聴衆が集まっていたのだった。5ステージ中,最高とのこと。

* * *

1階の席に座る。見渡すと,おおいなる人の流れ。「土日の公演でモルゴーアは盛り上がっています」とTAN広報からメールをいただいて駆けつけた次第ではあるが,その言葉を実感する。
和装の令夫人あれば,「これッ! この前の『宝塚』でも履いていったんだよォ」と靴を見せ合う女子学生おぼしき2人組もあれば,トイレでは「……ううう。今日は13番からか……。ううう。……」と呟く恐らくは弦楽四重奏に入れ込んで幾星霜なりし初老の男性もあれば,はたまた,デイパックを背負い込んで,演奏中は靴を脱いでお寛ぎの状態ながらもステージの動きにしっかり反応しているご老人あり,目を転ずれば,髪をポニーテールに結わえ白く暖かそうな服をまといながらもキリッとした身のこなしで舞台に対峙している若い女性など,ユニークなオーディエンスを見ることができる。

* * *

演奏の様子に移る。
本日のプログラムは第13番,14番,休憩を挟みクライマックスの第15番。アンコールは2曲。チェロソナタop.40第1楽章第2主題。そして第9番op.113。

ヴィオラから始まる第13番変ロ短調op.138は,1stヴァイオリンの提示を機に,サウンドが溶け合い,離れ,また溶け合うという様相を呈す。第2楽章途中ではチェロのランニングベースをフューチャー。第3楽章ではそのチェロの重厚さが押し出されるとともに,最後はヴィオラによる幕引き。全体にメロディの単調さがかえって薄暗がりの部屋に佇む知識人の思想の過程を映し出しているよう。

続く第14番嬰ヘ長調op.142は1stヴァイオリンの軽やかな出だし。しかし,20世紀の人は,やはり「屈折」するのである。否,時代に向き合うほどに屈折するのである。

* * *

1971年の五木寛之の小説,「浅の川暮色」を例にとる。ショスタコーヴィッチを作品そのものよりも,いかに「思想的道具」として表現しているかが見て取れるのではないだろうか。(注 五木寛之は共産党下における文学者の苦悩と職業的・心情的との葛藤を描いた『蒼ざめた馬を見よ』で1967年直木賞受賞)。
「あの頃おれはいくつだったろう。……下宿の床の間に『ドストエフスキー全集』をわざわざ乱雑に積み重ねたり、……洋裁学校の生徒が集まる喫茶店にショスタコーヴィッチの〈森の歌〉のレコードをあずけておいて掛けさせたり」

また,「歌は世につれ,世は歌につれ」という名文句がある。しかし,「『歌は世につれ』ることはあっても,けっして『世は歌につれ』ることはありません」と言うのは,パッヘルベル「カノン」にインスパイアされ名曲「クリスマス・イブ」を書いたポピュラー音楽作曲家の大御所・山下達郎氏である。
また多大なるファンをもつ『のだめカンタービレ』では,モーツァルトのテンポを「車じゃないんだよ! この時代は。馬車!」なる科白もあるが,ことほどさように,「歌は世につれる」のではないだろうか(だからこそ音楽史を学ぶ意義もあるのだろう)。

しかし,それを踏まえて後世の人に受け継がれるのは,作品に込められた意思ではないだろうか。それも五線譜という制限の中で。
ショスタコーヴィッチは「何を伝えたかったのか?」――そんな所に興味を覚え,かつ,それをモルゴーアQのテクニックが喚起するのである。音階中に挟み込まれる一つの不協的な音符,その音符がもたらすテーゼからの展開――さぞかし,「一つの音符」をめぐって,クァルテットの中で議論が起こり,それを基にしたアンサンブルが繰り広げられたのではないかと推察される。

それを味わったのが第3楽章である。
1stヴァイオリンのピチカートから始まり,恐らくは人間が心に浮かべる感情が,伝えられる。
曰く,苦。痛。悲。哀。愛。恋。鬱。歓。醜。美。青。赤。明。暗。爽。鳥。猫。犬。野獣。鬼。天使……。人の心の襞に巣くう感情が,猫の目のようにクルクル,変わる。

* * *

そして,第15番変ホ短調op.144へ。
第1楽章は,中音と低音がほどよくブレンドしていきながら,第2楽章セレナードへと続き,熱いインテルメッツオを越えて,第4楽章ノクターンは続く第5楽章の葬送行進曲へ。チェロが重々しく,ヴァイオリンは高らかに。

しかし,これで終わらない。
第6楽章エピローグでは随所にほどこされるトレモロ・トリルの連続が,「生と死」のゆらぎを我が身へいざなう。
これで終わりだ。しかし終わりたく,ない。作曲家も,アーティストも,観客も。のたうち回る。

* * *

最後の一音。

ヴィオラは余韻を隠せない。チェロは目を閉じたまま。
この間,舞台も客席も,じっと身じろぎしない。

この間,恐らくは数十秒,実感としては数分。やおら1stヴァイオリンが手をあげる。

割れんばかりの拍手。

耳が痛いほど。ほんとうに痛い。1階席で聴くのは久しぶりだったけれど,こんなにもこのホールは響くのだっけ……。四方八方から音がつんざく。

そうだ,この響きは,オープンまもない頃の,若々しい響きだ――。そんなことも感じた。

* * *

20世紀,とある国が前提とした「社会主義レアリスム」下の作曲家,というイメージで曲を聴いてしまうのは,ぬぐおうとしてもぬぐえない。しかし,それをおいてもなお,ショスタコーヴィッチにつき合っていきたいと思う。

「次の世紀も,またその次の世紀も,ショスタコーヴィッチが生きる。それは演奏家の力によるものです」(SQWディレクターのレセプションにおける謝辞より)

この21世紀に,確かに,モルゴーアによって,ショスタコーヴィッチは確かに,ステージに,現れた。一人の人間として。
そんなことを,フランス共産党葬として埋葬された一作家を大学の卒論テーマとして選びながらも,一人の詩人として好きだった学徒は感じた。

「エルザよ 分別を越えた狂気の歌
けっして 終ることのない 歌
五月の月よりも もっと甘い
恋の歌 十月の歌
はてしない網のような歌」(大島博光訳)

ここに「社会主義レアリスム」があるのだろうか。そして,モルゴーアが奏でるショスタコーヴィッチにも。
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by tritonmonitor | 2006-10-07 20:12 | SQWシリーズ

2006年9月24日(日):モルゴーア・クァルテット    ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会・3&4

【報告:須藤久貴/大学院生/(全5回通しで)2階C1列1番】 

 モルゴーア・クァルテットは一見すると地味な雰囲気だ。奇をてらったりすることはないが、彼らの質実優れた演奏の良さは、じっくり聴いているうちに明らかになってくる。四人の風貌も、全員が眼鏡を掛けていることによって、少し堅く古めかしい印象を持つかもしれない。その生真面目さは、おのずとショスタコーヴィチの印象とも重なってくるようにも思える。第1番ではヴァイオリンの荒井氏も戸澤氏も、あまりヴィブラートをかけないように弾いていたけれども、彼らは聴衆を甘いお菓子で釣ろうなどとは思っていないのだ。濃い味付けは必要ない。職人の料理で巧みに引き出された素材の良さを(音楽そのものの良さを)、ゆっくり噛み砕きながら味わううちに、いつしかショスタコの世界へと引き込まれていくかのようである。

 前日の二回の演奏会に引き続き、24日午後2時から第3回の演奏会が開かれた。

 ショスタコーヴィチ、弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調(作品108)はそれほど長くない曲で、第1楽章と第3楽章の末尾がほぼ同じ造りになっている。ピチカートに合わせて同じ音を弾く第2ヴァイオリン戸澤氏の、勢いを付けた音が印象に残った。

 ショスタコのドイツ語名でのイニシャル(D. Sch)が、音名で執拗にモティーフとして現れる有名な第8番ハ短調(作品110)には、一貫した緊張感が漂っていた。「D-Es-C-H」(レ-ミ♭-ド-シ)は、この曲全体を統一的に示す「記号」として用いられているから、この音を聴くたびに音楽の前面に出過ぎたショスタコの名前を何度も意識せずにはいられない。ツィクルス全体をロマーン(長編小説)と捉えるならば、第8番はノヴェレ(短編小説)だ。この曲に登場する主題は、今までの作曲者自身の作品からの引用が随所に散りばめられている。いわばこの「ノヴェレ」が、「ロマーン」全体を解き明かす鍵ともなっているのではないか、と想像してしまう。第4楽章では、張り詰めた緊張感が持続する中で、美しいチェロの旋律が高音で静かに弾かれた。藤森氏のソロは嵐の吹き荒れる谷間に人知れず咲く花を思わせるような、はかない響きで、天上の調べを聴く心地だった。

 ところで今回の演奏会のプログラムノートに林光氏は、こう書いている。「『弦楽四重奏曲第8番』をショスタコーヴィチは三日で作曲した。こういうことをするから、いけないのだ。苦しんでもがいて、腹から絞り出すように創作をするのが、信用されるんだ」――この言葉は、ショスタコを語っているようでいて、林氏自身の音楽を期せずして語っている。≪原爆小景≫が実に半世紀近くもの歳月をかけて完成されていることを思い返すならば、「腹から絞り出すように創作する」というのは彼自身の音楽に対する姿勢の表明でもある。同時に、困難な時代を生き抜き苦しみながらも三日で弦楽四重奏曲一曲を完成させてしまったショスタコに対する深い愛着を述べたものとも言えるだろう。

 第9番変ホ長調(作品117)は聴いているだけで面白い。何度も繰り返されるリズムが楽しい。特に第5楽章は圧巻だった。あまりの激しさに驚いた。モルゴーアの四人はひたすら力任せに押し切っていくが、もはや何が行われているのか分からないほどだ。長大に連なる八分音符はテープを早送りしているかのようだが、やがて同じリズムを執拗に刻み続けることで輪郭がはっきりと浮き出てくる。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の最後みたいな、ディオニュソス的な力強さですっかり圧倒されてしまった。

 なおアンコールは、3年前に発見されたばかりというショスタコの未完の弦楽四重奏曲(いわゆる「幻の9番」)が演奏された。とても聴きやすく時代を感じさせないポップな雰囲気だった。5回目の演奏会のアンコールでも演奏されたので後にもう一度触れたい。


 昼の部は4時前には終わってしまうので、6時半の夜の演奏会までは少し手持ち無沙汰になる。食事をしたりセガフレドでカプチーノを飲んだり、風に吹かれて運河を歩いていた。
 さて6時半からの第4回演奏会。

 第10番変イ長調(作品118)もとても聴きやすい。第2楽章の激しさに圧倒されるし、第3楽章は叙情的なチェロの旋律が美しい。ゆったりとしたアダージョであるのに、メロディーをフォルテッシモで激しく歌うあたりが面白いのだ。メゾフォルテだったら感傷的だが、激しく哀しさを強調するところに迫力がある。第4楽章のかわいらしいテーマは耳に残る。昔のファミコン音楽みたいなチープさ加減に意外性があるからなのか、やたら耳から離れない音楽だ。

 この日の演奏会で取り上げられた曲目は、全般的にどれも聴きやすい。60年代に書かれた9番、10番や12番は音楽に勢いもあって、親しみやすく思われる。第11番ヘ短調(作品122)は7つの短い楽章から出来ているが、音楽の変化が速く、同じモティーフが繰り返されるので聴きやすい。第4楽章のコラールでは、第1ヴァイオリンが無窮に動き回る中を、他の三人が激しく和音をかき鳴らしたのが印象的だった。

 最後に演奏された第12番変ニ長調(作品133)は、全15曲のツィクルスの中でももっとも充実した密度の濃い内容だったと思う。狭い音域で幾重にも絡み合う丁々発止のやり取りもよかったし、チェロの安定したソロも聴かせる演奏だった。しかし何より素晴らしかったのは、第1ヴァイオリンのピチカートだった。「張り詰めた糸」のような、という形容は、まさにこういう状態のことを指しているのではないだろうか。他の三人が弓を置き、無音になったところから第1ヴァイオリンの荒井氏は、ただひとり、高音のCとGの音を鋭く手ではじく。決然とした意志が漲っている。ピチカートの単音が間をおいていくつか発音されるとき、ホールの空間の広さが意識されてくる。それから他の楽器が加わり緊張は和らぐが、音楽の流れは元には戻らない。上昇する音型が勢いを得て天を衝く。また2番や3番のような「戦争」状態になり、「タタタタタン」というリズムが特徴的に繰り返される。つばを飲むのも忘れて、うねりに身を任せた。かっこよすぎる終わり方。聴衆の反応もこれまでで一番良かった。

 アンコールはヴァイオリン協奏曲第2番の第2楽章が演奏された。今回唯一の、荒井氏による書き下ろしのアレンジだという。ステージから聴衆に語りかけた荒井氏は、さらに「あと二時間もすればショスタコーヴィチの生誕100年ですから、ご家庭でどうぞ(お祝いください)」と付け加えるのを忘れなかった。本当にショスタコが好きなのだろうと思う。

 稿をもう一度改めて、27日の最終回について書くことにしたい。
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by tritonmonitor | 2006-10-07 15:23 | SQWシリーズ

2006年9月23日(土・祝):モルゴーア・クァルテット  ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会・1&2

【報告:須藤久貴/大学院生/(全5回通しで)2階C1列1番】

 ドストエフスキーの長編小説を一気に読破するかのような壮大な演奏会だ。全15曲というショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲ツィクルスが、9月23日の昼と夜、24日の昼と夜、27日の夜の計5回に行われた。モルゴーア・クァルテットによるショスタコ全曲は3度目だという。前回のツィクルスが2年半かけて全曲を演奏するという息の長い企画であったことを考えてみると、5日間で5回の演奏会という今回のツィクルスが、いかに大変なプログラムであるか察することができよう。

 TANの「かわら版」6月号には、この演奏会の特集があり、コピーライターの阿南一徳氏による紹介文とインタビューが掲載されている。その中で「聴きに行くのではなく、一緒に音楽と戦うために出向く5回の演奏会。参加しませんか?」と阿南氏が書いていたのを、行く前は訝しく思ったものだけれど、聴き終えて納得した。演奏者だけではなく、全曲を聴き通すとなると、聴衆にも集中力と忍耐が必要になるからだ。長い間じっと聴いていると腰も痛くなる。しかし私たち聴衆が真剣に演奏に耳を澄ますからこそ、演奏者もその姿勢に応えようとして、より良い音楽が生み出される。第5回演奏会終演後のレセプションで、第1ヴァイオリンの荒井氏は、「もはや音楽全体というよりも一音一音を追うのに必死でした。じっと聴いてくださっているお客さんを見ていると、それに応えようという気持ちになって勇気付けられました」という趣旨のスピーチをしていたが、まさに今回のツィクルスは、弾き手と聴き手の双方が一緒に作り上げていく演奏会であったのだ。

 後にも触れるが、ショスタコのクァルテットは難解には違いないが、聴くポイントを押さえれば、意外に聴きやすい音楽でもある。静かに沈み込んでいくピアニッシモも聴きどころだが、何をやっているかよく分からないようなところもある。そうかと思えば、音楽が動き始めて、若芽が次々と吹き出すように生き生きしたり、フォルテッシモで弾き散らしながら「ヴァイオリン2挺VSヴィオラ」みたいな手に汗握る「戦争」状態になったりもするから面白い。

 弦楽四重奏曲を個別に1曲ずつ聴くだけではなく、今回のようなツィクルス形式だと作曲順に演奏を聴き比べられるのが何とも贅沢な楽しみになる。林光氏がプログラムノートに書いている通り、ショスタコーヴィチは調性の異なる24曲の弦楽四重奏曲集を作曲する意図があったらしい。15曲の調性はそれぞれ違っているし、バッハの≪平均律クラヴィーア曲集≫のように第1番はハ長調から始まっていることも、その想像を深めることだろう。冒頭にドストエフスキーのような壮大さと書いたけれども、ショスタコの弦楽四重奏曲は15曲を通して連関性があるために、短編小説群を読み進めていくという感覚よりは、大部の長編小説を1章ごとにしおりを挟みつつ腰を据えて読んでいくという感覚に近い。1曲ずつを切り取って聴くのも楽しいが、40年近くの長い期間に渡って紡がれた15曲もの弦楽四重奏曲を通して聴くならば、変わりゆく音楽の中に変わらずも留まり続ける、「通し糸」としてのショスタコーヴィチの存在に、最後には行き着くことになる。生誕100周年という節目の年に、しかも9月25日という誕生日を挟みつつ、ショスタコとは何だったのだろうか、あるいは旧ソ連邦とは何だったのだろうか、と考える良いきっかけにもなったかもしれないのだ。


 さて、第1回の演奏会は23日午後2時から始まった。晴れてはいるが風がとても強い日である。運河沿いに歩いていると、トリトン・スクウェアの広場ではお祭りとバザーが開かれていて楽しそうだ。屋形船も広場に横付けされていて、子供たちを乗せて運航している。休日のお昼は清々しい。

 第1番ハ長調(作品49)の第1楽章は、テンポも音量も抑え気味に始まり、終楽章でエネルギーが発散されていくというような演奏だった。ヴィブラートをあまりかけないように弾いていく第1ヴァイオリンの荒井氏の音色は禁欲的であったし、第2楽章でヴィオラの小野氏が美しいソロを演奏するそばで第2ヴァオリン戸澤氏が鋭くピチカートで合いの手を入れる音色の鋭さも良かった。

 第2番イ長調(作品68)は、初めに5度の和音が際立っているから、第1番に慣れた耳には少し異質な音楽に聴こえてしまう。心も仕切り直して、拍手によっていったん「しおり」を挟んだ物語は、「第2章」へと舞台を移す。音楽の大仰な「身振りの大きさ」にも次第に慣れていき、いつのまにかモルゴーアの絶妙な語り口に引き込まれていくようだ。第1ヴァイオリンがレチタティーヴォ風の旋律を朗唱する第2楽章では、他の三人がひたすらに音量を抑えたピアニッシモの響きが美しかった。第4楽章にはロシア民謡風のヴィオラの旋律があるが、この変奏曲のクライマックスにはハラハラさせられた。「ヴァイオリン2挺VSヴィオラ」で戦争をしているかのような迫力。チェロの藤森氏は中立的な審判者として振る舞い、伴奏に興じているかと思いきや、ロ長調へ転調するやいなや、チェロは勝利の凱歌を高らかに歌い上げる。その旋律を第1ヴァイオリンが受け継いでいくから、ああ勝ったのはヴァイオリン・チームなのだな、と思った。ところが強奏のさなか、最後の最後に「レ-ファ♯-ラ-レ-ファ♯-ラ-シ-ド」と、一足飛びに階段を駆け上がっていくのはヴィオラなのである。最後の勝者となって高みへ昇っていく小野氏のヴィオラの力強さは圧巻だった。幕切れまで結末が分からない推理小説のような面白さがここにはある。

 休憩後に第3番ヘ長調(作品73)。軽快な第1楽章が始まるが、モルゴーアの四人は追い詰めるように楽章末尾にテンポを速めていき、緊張感も高まる。第5楽章は、冒頭のチェロの旋律が増4度、増5度と連なるため、不気味でもののけじみているが、荒井氏のヴァイオリンからは少女が切なく身もだえするような音色が聴こえてきたり、第2番みたいな「戦争」にもなる。しかし最後には張り詰めた緊張感の中、静かなピアニッシモのかすかな和音を鳴らしながら第1ヴァイオリンがゆっくり沈みこんで消えていく。弓が弦から離れたときの静謐さはたとえようもなく無言の充足感に溢れていた。アンコールでは、交響曲第5番第3楽章のアレンジが演奏された。

 さらに同じ日の夕刻、午後6時半から第2回の演奏会も開かれた。

 第4番ニ長調(作品83)は感傷的な第2楽章が美しい。まるでメンデルスゾーンでも聴いているような親しみやすさだ。荒井氏のヴァイオリンは徐々にヴォルテージを高めていき、高音の8分音符と3連符が交錯する旋律を、粘るように精一杯レガートで歌っていたのが印象的だ。第5番変ロ長調(作品92)では「ファ-ファ♯-ソ」と半音階進行の3音を上げ弓でヴァイオリンが弾き切ったり、曲想が激しくなるにつれチェロの藤森氏は足でリズムを取ったりと、興奮の高まりが見て取れる演奏で楽しめた。第6番ト長調(作品)も第3番と同じように、瞑想するように静かに曲が閉じられていく。アンコールは、≪ムツェンスク郡のマクベス夫人≫から<カテリーナのアリア>のアレンジが演奏された。弱音器を付けて響かせる、くぐもった響きが演奏会の末尾にはふさわしく思われた。

 一日で昼と夜の二回、演奏会を聴くだけでも少し疲れを感じてしまったものの、モルゴーアの四人の演奏に、乱れたところがまるで見られなかったことにとても驚いた。何という集中力だろう。昼よりも夜の演奏で、響きはますます透明に澄んでいくように思われた。

 長くなったので、いったん稿を改めて、3回目以降の演奏会をレポートしよう。
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by tritonmonitor | 2006-10-04 20:00 | SQWシリーズ